木下泰之Blog のサブタイトル 「下北沢通信」 |
下北沢は私にとって切っても切れない街です。
選挙選はいつも下北沢に事務所を構えて戦っています。
最初の選挙で落選し人生のどん底をみました。伴侶を見つけたのもこの街ですし、再チャレンジで勝利したときの喜びもこの街と共にあります。
1983年に私は世田谷に移り住みました。そのとき最初に借りたアパートが下北沢の商業地のはずれにある大原一丁目のアパートでした。
その後、北沢三丁目、また大原一丁目と移り住み、現在は代田四丁目に住んでいます。下北沢界隈から離れられないのです。
最初に選挙に挑戦したのが1991年。
当事、私は、下北沢からで起こった小田急線の高架反対・地下化推進の運動体である「小田急沿線住民の環境を守る会」(筧勇一会長)の事務局長をしており、その運動体からも推されて、選挙戦を戦ったのでした。
東通りの一角、喫茶店カフェカナンの隣に板金屋さんがありました。廃業となったその店舗をお借りし、選挙事務所としました。
当然スローガンは「小田急高架反対・地下化推進」でした。
最初の選挙は3000余票を得るも43票差で次点の落選。
「小田急高架反対・地下化推進」をスローガンに掲げ1995年に初当選しましたが、このときは、北口下北沢商店街の横浜銀行近くの洋品店「ひつじ屋」が廃業した後をお借りしました。
1999年の選挙戦の際には、下北沢についての地下の行政方針が公表されるようになり、小田急線全線の地下化要求と同時に、「下北沢の54号線反対」と「ウォーキングストリート下北沢を守れ!」をスローガンとして戦いました。
このときの選挙事務所は一番街栄通りのせんべい屋さんの隣(現在の「ナチョラルビンテージ」のビル)に構えました。
2003年の前回の選挙は一番街の酒屋「仙台屋」の2階をお借りしました。
このときの選挙では2001年10月に小田急線訴訟第1審で勝訴判決に勇気付けられ、メインスローガンを「土建・官僚国家を緑の先進国に――公共事業の見直しは世田谷から」とし、地下化事業が行政決定となった下北沢については、54号線反対を全面に掲げ、「生き様、様々下北沢」「緑の街に電車はモグラ、力の道より歩く道」を演説会ポスターや選挙看板に掲げて戦いました。
なお、この狂歌風スローガンはブルースバー「デルタ・ブルー」の正井マスターの作となるものです。
3期目当選後の2003年の夏、「小田急高架と街づくりを見直す会」(中本信幸会長)の下北沢関係メンバーを中心に呼びかけ人を募り、私が「下北沢の都市計画を見直す市民フォーラム」準備会事務局長となって下北沢の54号線と都市計画の見直しのための運動体結成を呼びかけました。
現在の下北沢の運動体「SAVE THE 下北沢」は11月に開かれた2回目の準備会が発足の基礎となっています。
さて、区議4期目を目指す2007年、事務所を探すのに難航しました。気をもみましたが、なんとか、下北沢の北口に構えることができそうです。
これからの3ヶ月、文字通りの「下北沢通信」となりそうです。ご期待下さい。